また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 No reproduction or republication without written permission. ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(ロシア語: Михаил Сергеевич Горбачёв(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ)、ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev、1931年3月2日 - )は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家で、ソ連最後の最高指導者。歴代ソ連最高指導者のうち唯一の存命者であり、かつ最長寿(2020年現在89歳)である。, 1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任し、内政では停滞していたソ連の政治経済の抜本的改革を目指しペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を断行、外交では新思考外交に基づき東欧の民主化革命を支持し冷戦を終結させた。しかし、ソ連国内の民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力が分裂する中、1991年の「8月クーデター」を招き、新連邦条約締結に失敗した。結果として、ソ連共産党の一党独裁体制とソ連そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。, 1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞した。西側諸国などでは広範な人気があり、ゴルビーの愛称で親しまれるものの、ロシア国内などではアメリカと並ぶ超大国であったソ連の崩壊とその後の国力低迷の責任者と目され、評価が分かれている。, 1931年3月2日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村(英語版)にて、コルホーズ(農業集団化政策)の農民の子として生まれる。幼年時代、ヨシフ・スターリンの大粛清に遭遇する。この時、祖父のアンドレイがサボタージュの嫌疑で投獄された。, 1941年に独ソ戦が始まると、農業技術者だった父親のセルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフが従軍した。1944年夏の終わりに父が戦死したとの通知がもたらされたことで一家は悲嘆にくれたが、本人から無事を伝える手紙が3日後に届いた。スタヴロポリ地方は一時期、ナチス・ドイツ軍に占領されている。, 戦後、14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたというのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。18歳で労働赤旗勲章を授与される機会に恵まれ、1950年、19歳の時にスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。同大学在学中、後に妻となる哲学科の学生ライーサ・マクシーモヴナ・チタレンコと出会う。5年間の大学生活中、ゴルバチョフはストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間にチェコスロバキアから留学していたズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは後の「プラハの春」の推進者の一人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。, ゴルバチョフとライーサは1953年9月に結婚し、大学卒業と同時にスタヴロポリに移住して農業の勉強をする。1957年に娘のイリーナ (ru) が誕生。大学卒業後、ゴルバチョフはソ連検察庁の国家試験を受験する。いったんは内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻って地元のコムソモール活動に従事し、書記になった。やがて、スタヴロポリ地域の農業行政官となり地区書記に昇進した。正直で改革の志のあることで名声を高め、出世の階段を駆け上がった[1]。, 1955年にスタヴロポリ市コムソモール第一書記、1962年にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、1966年にスタヴロポリ市党第一書記、1968年にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年にスタヴロポリ地方党委員会第一書記に就任し、1971年には40歳で党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、1967年に科学的農業経済学者の資格を得ている。, ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、ニキータ・フルシチョフ第一書記の非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者のミハイル・スースロフや、同郷のユーリ・アンドロポフの知遇を得たほか、同格の地方共産党の指導者であったボリス・エリツィン(スヴェルドロフスク州党第一書記)やエドゥアルド・シェワルナゼ(グルジア共産党第一書記)らと交流を持つに至る。, 1978年11月、急死したフョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として党中央委農業担当書記に抜擢される。ゴルバチョフの書記への任命は中央委員会総会において満場一致で承認された。ゴルバチョフと妻のライサはモスクワに引っ越し、国家から邸宅が与えられることになった。1979年には政治局員候補として政治局入りする。彼はその新しい役職で、しばしば1日あたり12時間から16時間働いたという。ゴルバチョフは過度に中央集権化された国の農業管理システムに対する懸念を強めていき、1978年の中央委員会で問題提起を行った。彼は、他のソビエトの政策についても問題意識を持ち始めた。1979年のソ連軍によるアフガニスタン侵攻も誤った政策だと考えていた。しかし、時に彼は公然と政府の立場を支持した。例えば、1980年10月にソビエト政府がポーランド政府に対して同国内での批判意見の取り締まりを要請した際にはそれを支持した。そして同月の党中央委員会総会で史上最年少の政治局員となる。, 1982年のレオニード・ブレジネフ書記長の死後、アンドロポフが書記長に就任すると、ゴルバチョフは事実上のソ連の権力No.2に当たるイデオロギー担当書記に引き立てられた。1983年4月にはレーニン生誕113周年記念集会での演説を任せられた。アンドロポフの死後に書記長となったコンスタンティン・チェルネンコは病弱であったため、ゴルバチョフは「第二書記」としてチェルネンコを補佐し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。, 1983年、カナダを訪問し、首相(当時)のピエール・トルドーと会談する。この時に駐カナダ大使で、後にゴルバチョフ政権のNo.2としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフと面識を持つ。さらにイギリスを訪問し、首相(当時)のマーガレット・サッチャーから「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。, 1985年3月、チェルネンコの死去を受けて共産党書記長に就任する(54歳)。高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさは『プラウダ』紙でのゴルバチョフの写真が死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。ゴルバチョフの有力なライバルとしては、レニングラード党第一書記のグリゴリー・ロマノフがいた。しかし、ロマノフは代わりにモスクワ党第一書記のヴィクトル・グリシンを推薦するが、外務大臣・第一副首相のアンドレイ・グロムイコらの推薦を得たゴルバチョフが勝利した。推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔はすばらしいが、鉄の歯を持っている」と語った。, ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」にふさわしい人事刷新を矢継ぎ早に行う。自身の後任の「第二書記」にはエゴール・リガチョフを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。対抗していたグリシンとロマノフ、老齢のニコライ・チーホノフ首相を解任し、共産党中央委員会書記のニコライ・ルイシコフ(経済担当)を当てた。また、グロムイコを最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。, また、経済担当の閣僚では、ゴスプラン(国家計画委員会)議長ニコライ・バイバコフを解任、後任にニコライ・タルイジンを任命した。軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられ、若返った。, 本人の南ロシアなまり(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「Процесс пошел(プロツェース・パショール,プロセスは始まった=改革が始まった)」という言葉を多用、正規的なロシア語表現ならば「Процесс начался(プロツェース・ナチャルシャー)」となるが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行。次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。, 書記長就任から8か月後の1985年11月、スイス・ジュネーヴにて、アメリカ大統領のロナルド・レーガン(当時)と米ソ首脳会談を行う。この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。1986年4月、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。4月に発生したチェルノブイリ原発事故を契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進する。当初、レーガンや西側の保守派はゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消されることになった。, 経済改革では、社会主義による計画経済・統制経済に対して、個人営業や協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、1987年8月に国営企業法を制定した。ペレストロイカは次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。その中で、自らが電話でその解放を伝えたサハロフ博士をはじめとするソ連国内の反体制派(異論派)が政治的自由を獲得し、スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。ゴルバチョフは自身をソ連崩壊のその日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」「新世界秩序」[2][3] といった新たな価値によって国内政治及び外交政策において大胆な転換を実行していった。, 1986年7月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタンからの撤退と中ソ関係改善を表明した。10月にはアイスランド・レイキャヴィークにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカのレーガン大統領が掲げていた戦略防衛構想(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。このことが、1987年12月に成立する中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)につながっていく。, 1988年10月、ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任し、国家元首となる。, 12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置する憲法改正法案が採択される。この頃より守旧派に接近を余儀なくされる。, 求心力が低下したゴルバチョフは、1990年3月、複数政党制と強力な大統領制を導入(これによりこれまでの書記長制を廃止)する憲法改正法案を人民代議員大会で採択させた。, 3月15日、人民代議員大会において実施された大統領選挙において、ゴルバチョフはソ連の初代大統領に選出(これによりソ連の国家最高責任者は書記長から大統領に移行した)されたが、ゴルバチョフがロシアに導入した1991年ロシア大統領選挙のような直接選挙ではなく、人民代議員大会による間接選挙で選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった[4]。副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を電撃的に辞任して世界中を震撼させた。ゴルバチョフはゲンナジー・ヤナーエフ政治局員を副大統領に指名した。, 一方、人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任されたボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、さらに1990年にはロシアSFSRの大統領となり、さらにソ連共産党から離党を宣言して、党外改革派の代表としてゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。, 国内政策での保守派への妥協にも関わらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来のブレジネフ・ドクトリンによる強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春で起こったソ連軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。事実、1989年のポーランドにおける円卓会議を起点とする一連の東欧革命に関して、ソ連は軍事的行動を行わず、1990年には東ドイツの西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。ゴルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツの首相ヘルムート・コールが示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。, 冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。ゴルバチョフ自身も保守派への配慮から1991年2月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立革命に対するソ連軍・治安警察による武力弾圧を承認せざるを得なかった(血の日曜日事件)。, また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、1989年5月に中国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。これは六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。1990年の湾岸戦争では国連安保理で武力行使容認決議に賛成して米ソの和解を演出する一方、米国とイラクの停戦を仲介した(ゴルバチョフの案は当時のアメリカ軍統合参謀本部議長コリン・パウエルとアメリカ中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフによって修正され、協定が結ばれた)。, 1991年4月にはソビエトの最高指導者として初めて日本も訪れ、海部俊樹首相(当時)と日ソ平和条約の締結交渉や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。, 1990年11月7日の革命記念日、モスクワの赤の広場で軍事パレードが行われていたとき、ゴルバチョフ暗殺未遂事件が発生した。労働者のデモンストレーションの最中、行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進がレーニン廟(この講壇上にソ連の指導者が並んでいた)に近づくと、ゴルバチョフめがけて2発の銃弾を放った。しかし、弾は外れた。シモノフがライフル銃を取り出してすぐに護衛に発見され、狙いを定めている間、将校が走ってきて銃身を殴ったため、弾は空に逸れた。シモノフはデモに参加していた群衆に取り伏せられ、すぐさま逮捕された。彼は、1991年のソ連崩壊前最後のソビエト時代の暗殺者であり、その後4年間を精神病院で過ごした。ソ連中央テレビは一時放送を中断し、午前11時25分に通常放送を再開した。, 1991年、ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。ロシアSFSRのエリツィン、カザフSSRのヌルスルタン・ナザルバエフの2人と会談し、新連邦条約を8月20日に調印する運びとなった。ところが8月19日、クリミア半島フォロス(ロシア語版)の大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフ、ヤナーエフ副大統領、そして、首相のヴァレンチン・パヴロフらの「国家非常事態委員会」を名のる保守派が起こしたクーデターによって、妻のライーサや家族、大統領補佐官のアナトリー・チェルニャーエフ(英語版、ロシア語版)らとともに別荘に軟禁された。, ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワでエリツィンや市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。(ライーサ夫人は救出後に「軟禁中、『ソニー』が一番役立った」とコメントしている。), 上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜した。これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。, 8月23日にゴルバチョフはロシア最高会議で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員たちはゴルバチョフの演説に耳を傾けることはなかった。同時に、ロシアSFSRのエリツィンはソ連共産党の活動停止の大統領令に署名する。, 翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長の辞任と共産党の資産凍結を発表するとともにソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、エストニアとラトビアの独立を承認した。, クーデターからおよそ10日後の8月29日、ソ連最高会議の臨時両院合同会議でパブロフ首相の不信任案が可決され、ソ連共産党の活動全面停止を決定した。, 同年末には、この時点でゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシアSFSRのソ連邦からの脱退を進めたことにより、ソ連は崩壊した。12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任した。結果的にソ連時代唯一の大統領となった。, ソ連崩壊を不本意な形で迎えたゴルバチョフにとって、年金生活入りすることは論外であった。, 1991年12月より、国際社会経済・政治研究基金(通称、ゴルバチョフ基金またはゴルバチョフ財団)を設立、自ら会長に就任した。また、環境問題に主な活動を移し、グリーンクロス・インターナショナル会長として元地球サミット事務局長のモーリス・ストロングとの地球憲章の作成やアースデイへの署名[5]など国際環境保護運動に積極的に参画した。政治活動として1996年のロシア大統領選挙に立候補したが、得票率は0.5%で落選した。その後、ピザハットのCMに出演するなど、政治以外の活動も開始する。, 1999年9月20日、妻のライーサを白血病で失う[6]。最愛の妻を失って悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。, 2001年11月、ロシア社会民主党党首に就任したが、2004年5月22日には同職の辞職を発表、事実上の政界引退となった。なお、ロシア社会民主党はロシア最高裁から解散命令が出され、ゴルバチョフは不快感を表明した。, 2006年11月には右頚動脈に異常が認められ、ドイツのミュンヘンの病院に入院、11月21日に手術を受け、経過は良好であると発表された。, 2007年にはフランスの高級バッグメーカーのルイ・ヴィトン社の広告に登場した際には、脇にアレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件を特集している雑誌記事が映っており、ウラジーミル・プーチン政権を暗に批判しているとの憶測が出ている。しかし2007年10月20日、2007年ロシア下院選挙を目前に社会民主同盟(社会民主連合)を創立し、結成大会で議長に選出される。就任演説で「議会は一党のほぼ支配下にある。左派の理念も自由主義も取り込んだ幅広いものとするべきだ」と現状を批判し、政界復帰の意欲を見せたものの、同選挙ではプーチン政権与党の統一ロシアへの投票を呼びかけた[7][8]。, ゴルバチョフはプーチンについて、「ロシアに(ソ連崩壊後の)安定と経済的繁栄をもたらした」「強いソ連(ロシア)を復活させた」として評価している[9]。しかしプーチンが党首を務める統一ロシアについては、2009年に入ってAP通信のインタビューで「官僚の党」と述べ、更に「それはソビエト連邦共産党の最悪の形だ」と批判している[10]。, 2011年ロシア下院選挙の不正疑惑や2012年ロシア大統領選挙の事前審査でグリゴリー・ヤヴリンスキーらが立候補を制限されたことなどを受けて、プーチン政権批判を強める。2012年1月28日、「専制」を排除し、政治改革を実現するための国民投票実施を提唱する論文を発表したとインタファクス通信は報道した[11]。, 2008年に勃発した南オセチア紛争については、8月14日にCNNの番組「ラリー・キング・ライブ」に出演した際、「ロシアの軍事介入は南オセチア・ツヒンバリの惨状への対応であるため、ロシアとグルジアの衝突を招いた責任はグルジアにある」と発言した。また、西側のマスコミに対しては、「ツヒンバリの惨状について最初しか映し出さず、ロシアのみに紛争の責任を負わせようとしている」と批判した。また、アメリカが推し進めている東欧ミサイル防衛構想を批判し、「再び冷戦を繰り返さないようにしよう」と述べている。, 民主系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」紙の大株主となっているほか、世界ノーベル平和賞受賞者サミットの公式スポンサーであるイタリアの自動車メーカーのランチアのテレビCMに、元・ポーランド大統領レフ・ワレサやミャンマーの非暴力民主化活動家であるアウン・サン・スー・チー、イングリッド・ベタンクールなどとともに出演した。, 2008年9月、ゴルバチョフは、アレクサンドル・レベデフ(英語版)とともにロシア独立民主党という新党を結成したことを発表し[12]、2009年5月には、活動がまもなく開始されることも発表した[13]。その際に多数の支持者がいることも述べた。これは2001年のロシア社会民主党結成および社会民主同盟以来、ゴルバチョフの3度目の政党結成の試みである[14]。, 2019年に中距離核戦力廃棄条約が失効すると、条約の失効は新たな軍拡競争を生み出すと懸念を表明した[15]。また、全ての国が核兵器の廃絶を宣言すべきだとしている[16]。, ゴルバチョフに対する評価は二分している。前述したように現役当時から西側諸国では絶大な支持がある。西ドイツの首都・ボンに訪問した時など「ゴルビー! !」と、冷戦当時に西ドイツを訪問したアメリカのジョン・F・ケネディ以来の熱狂的な支持があった。米『タイム』誌の特集「20世紀の重要人物100人」に、ロシア出身の政治家からはレーニンとゴルバチョフのみが選ばれている。, 一方のロシアでは、就任当初を除いて在任中から不人気であり続けた。風貌と語り口から典型的な南ロシア出身者とみなされたことが、エリツィンの人気を一層引き立てる結果になった。ソ連崩壊後のロシアではエリツィンの失政もあって、経済・軍事などあらゆる面でアメリカとの国力差がさらに広がったため、「“偉大で強い”古き良き時代(スターリン・ブレジネフ時代のこと)であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」という意見も多い。, また、ゴルバチョフが政権初期に飲酒制限政策(酒類供給量の制限や販売時間の制限等)を展開したことで、酒好きで知られるロシア人からさらなる反感を買うこととなった。, ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の映画『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』に本人役で出演した。『ピーターと狼』(プロコフィエフ作曲)のCDでは、元アメリカ大統領のビル・クリントンらとともにナレーションで出演しており、第46回グラミー賞で最優秀子供向け朗読アルバム賞に選ばれた。, イギリスのテクノグループシェイメンのアルバムに『In Gorbachev We Trust』(1989年)があり、ジャケットにゴルバチョフの肖像画が使われている。, 1997年には、ピザハットのテレビCMに出演[17]、また、前述の通り、ルイ・ヴィトンの2007年秋の広告にカトリーヌ・ドヌーブやアンドレ・アガシ、シュテフィ・グラフ夫妻と出演している。撮影はベルリンの壁の前で行われたが、これはゴルバチョフのリクエストによるもの。出演料は自身が設立した環境保護団体と、元アメリカ副大統領アル・ゴアの地球温暖化防止事業に寄付されたという[18]。, 1991年4月12日に当人の名を冠したファミリーコンピュータ用ゲームソフト『ゴルビーのパイプライン大作戦』が徳間書店より発売された。また、セガ(後のセガゲームス)の携帯ゲーム機ゲームギア用ソフトで『がんばれゴルビー!』というタイトルがある。ゲーム内容は主人公のゴルビーを操作し、工場内で警備員の目を盗んで食料などの物資を貧しい民衆に送り届けるというもの。, 妻との初めてのデートは日本のコーラスグループ、ロイヤルナイツのコンサートであったと五木寛之に語っている[19][20]。また、初来日の際、鯉のぼりを見て非常に驚いたというエピソードがある。書記長・ソ連大統領時代の1991年4月16 - 19日には日露(日ソ)会談のため来日、海部俊樹首相(当時)や元外務大臣の安倍晋太郎と会談を行っている。この時同伴したライサ夫人の銀座での買い物シーンがテレビを通じて報道され、ソ連国内で「国民が経済不調で苦しんでいるのに」と不評を買った。, 政界引退後は各種団体やマスコミなどの招きで頻繁に来日し、そのつどテレビ番組などに出演しているほか、地方都市にも足を伸ばし、講演会なども催している。1993年4月には創価大学、大阪工業大学の両校で講演を行い、同年の創価大学と2003年11月には日本大学より、それぞれ名誉博士号を授与され、同年及び2005年5月の2度にわたり日本大学にて講演を行った。2005年6月に来日した折には、徹子の部屋に出演(同年7月5日放送)。また、同年12月にも再び来日し、12月24日放送の日本テレビ系のバラエティー番組『世界一受けたい授業』に講師として出演。同番組内の講義の中で「日本には毎年何回も来ており、正確な来日回数は自分でも分からない」と述べている。同番組では2003年に勃発したイラク戦争開戦当時は丁度来日していて、一般乗客として山手線に乗車していた最中にニュースを聞いて初めて知ったと述べている(番組ではアメリカ軍のイラクへの侵攻を「政治的な大きな誤り」であると批判した)。ちなみにこの番組には生徒役(ゲスト)として、当時の小泉純一郎首相の長男で俳優の小泉孝太郎が同席しており、同年9月に行われた第44回衆議院議員総選挙(郵政解散)を高く評価した。また、沖縄県知事だった翁長雄志と何度も面会したことがあり、翁長の死去に際して追悼メッセージを送った[21]。, このほかに来日こそしていないものの、2006年の24時間テレビのCMに出演しメッセージを送っている。2014年3月28日の『笑っていいとも』(金曜日最後の放送分)の「テレフォンショッキング」で黒柳徹子が出演した際は、ゴルバチョフ財団の名義で花を贈っている。, 2009年12月の来日では鳩山由紀夫首相(当時)と会談したほか、1990年[22]より親交のある創価学会の池田大作名誉会長とも対談した(対談内容は潮出版社発行の雑誌『潮』に全文が掲載)。このほかに明治大学で学生との対話集会を催し、その模様が同月及び2010年1月に「ゴルバチョフ 若者たちとの対話」としてNHK衛星第1にて放送された。また、『世界一受けたい授業』の2010年新春スペシャルの収録にも講師として再び出演した(『世界一受けたい授業』2010年新春スペシャルは2010年1月2日に放送[23])。, 2010年2月にも再来日し、関西テレビ・フジテレビ系列のバラエティー番組『SMAP×SMAP』の「BISTRO SMAP」にゲストとして出演、ソ連時代の自分の周囲の出来事をSMAPリーダーの中居正広に語っていた。, 演説集を出版するなど、読売新聞とは関係が深く、日本テレビ系列の番組に多く出演しているのもその繋がりである。また、創価学会の池田大作名誉会長とは1990年7月27日にクレムリンで行われた初めての会談[24]を皮切りに来日時には毎回面会している。逆に池田名誉会長がロシアを訪問する際にも面会し、ほぼ毎回対談しており、面会・対談の様子は『潮』や聖教新聞社発行の写真雑誌『グラフSGI』などに掲載されている。, ベティ・ウィリアムズ / マイレッド・コリガン・マグワイア (1976) - アムネスティ・インターナショナル (1977) - メナヘム・ベギン / アンワル・アッ=サーダート (1978) - マザー・テレサ (1979) - アドルフォ・ペレス・エスキベル (1980) - 国際連合難民高等弁務官事務所 (1981) - アルバ・ライマル・ミュルダール / アルフォンソ・ガルシア・ロブレス (1982) - レフ・ヴァウェンサ (1983) - デズモンド・ムピロ・ツツ (1984) - 核戦争防止国際医師会議 (1985) - エリ・ヴィーゼル (1986) - オスカル・アリアス・サンチェス (1987) - 国際連合平和維持活動 (1988) - ダライ・ラマ14世 (1989) - ミハイル・ゴルバチョフ (1990) - アウンサンスーチー (1991) - リゴベルタ・メンチュウ (1992) - ネルソン・マンデラ / フレデリック・ウィレム・デクラーク (1993) - ヤーセル・アラファート / シモン・ペレス / イツハク・ラビン (1994) - パグウォッシュ会議 / ジョセフ・ロートブラット (1995) - カルロス・フィリペ・シメネス・ベロ / ジョゼ・ラモス=ホルタ (1996) - 地雷禁止国際キャンペーン / ジョディ・ウィリアムズ (1997) - ジョン・ヒューム / デヴィッド・トリンブル (1998) - 国境なき医師団 (1999) - 金大中 (2000), "Vision on the World Stage", Washington Post, November 9, 1988, "The Gorbachev Challenge", Time Magazine, December 19, 1988, 塩川伸明「ペレストロイカの時代」(和田春樹編『ロシア史』〈新版世界各国史22〉、山川出版社、2002年)。, Earth Day: Visions of Peace, Justice, and Earth Care: My Life and Thought at Age 96. p.31, Raisa Gorbachyova's Biography on the Gorbachyov Foundation website, Gorbachev endorses Putin in election and says Russia is serious partner of West, http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7927920.stm, “Gorbachev launches political party with Russian billionaire”, http://www.guardian.co.uk/world/2008/sep/30/russia, “Mikhail Gorbachev will found new political party”, https://web.archive.org/web/20110716085011/http://mosnews.com/politics/2009/05/13/gorbiedem/, http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7054274.stm, https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201908/CK2019080202000142.html, The former Soviet leader Mikhail Gorbachev full interview - BBC News, 金正恩体制の終わりは近い? 北朝鮮政府はすでに資本主義に切り崩されている-高官の間に広がる「不純な」態度, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ミハイル・ゴルバチョフ&oldid=80292586. 株式会社ゆうちょ銀行および日本郵便株式会社が発行するプリペイドカード・デビットカード。国際的なクレジット決済ブランドであるVisaの加盟店で利用できる。年会費は無料で、満12歳以上(小学生を除く)のゆ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 ソビエトの指導者ミハイル・ゴルバチョフは、冷戦の緊張を終わらせた功績でノーベル平和賞を受賞しました。 1988年に権力を握って以来、ゴルバチョフは ノーベル平和賞のゴルバチョフが翁長追悼文! 琉球新報によると、東西冷戦終結の立役者で、ノーベル平和賞を受賞したミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領(87)は10日、琉球新報に対し、死去した翁長雄志知事への追悼文を寄せた。 ©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報, 旧ソ連末期の政治家。ロシア人。3月2日北カフカスのスタブロポリ地方クラスノグバルジェイスキー地区プリボルノエ村の農家に生まれる。1946年から1950年までスタブロポリ地方の農村でコンバイン操縦助手として働いたのち、モスクワ大学に入学。在学中の1952年に共産党に入る。1955年に同校を卒業後、スタブロポリでコムソモール(青年共産同盟)と党の活動に従事しながら、1967年にスタブロポリ農業大学を通信教育で卒業。1970年にスタブロポリ地方党委員会第一書記、1971年に党中央委員。1978年11月に党中央委員会書記に抜擢(ばってき)され、モスクワに移り、1979年11月に党中央委員会政治局員候補、1980年10月に同正局員にスピード昇進。, 1985年3月10日のチェルネンコ書記長の死去の翌11日に後任書記長に選出され、党の最高指導者となり、「グラスノスチ(情報公開)」、「ペレストロイカ(建て直し)」のスローガンのもと、自由化と民主化を積極的に推し進めた。さらに、「新思考外交」を掲げて協調的・融和的外交を展開した。1988年10月、最高幹部会議長を兼任。1989年5月、新設の最高会議議長に選出。1990年3月、憲法改正に伴い初代のソ連大統領に就任した。同年、ノーベル平和賞を受賞。1991年8月の保守派クーデター未遂後、党書記長を辞任。同年12月、独立国家共同体(CIS)の創設とソ連消滅を受けて大統領を辞任した。1996年6月、ロシア大統領選に出馬したが、約38万票、0.5%の支持しか得られず、落選した。, 『下斗米伸夫著『ゴルバチョフの時代』(1988・岩波書店)』▽『D・ドーダー著、大蔵雄之助訳『ゴルバチョフ1931―1991』(1991・TBSブリタニカ)』▽『M.ゴルバチョフ著、読売新聞社外報部訳『ゴルバチョフ演説集』(1991・読売新聞社)』▽『中西治著『ソ連邦から共同体へ』(1992・南窓社)』▽『清水良三著『ゴルバチョフ・エリツィン革命』(1995・成文堂)』▽『M.ゴルバチョフ著、工藤精一郎・鈴木康雄訳『ゴルバチョフ回想録上・下』(1996・新潮社)』, 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例, …その後継者は彼よりもさらに年上のチェルネンコKonstantin Ustinovich Chernenko(1911‐85)となった。結果的には,チェルネンコは,若いゴルバチョフMikhail Sergeevich Gorbachyov(1931‐ )への期待を高めるだけの役割を演じて,翌年死亡した。[ペレストロイカ期]ペレストロイカ期モスクワ大学法学部出身のゴルバチョフは,85年3月の就任演説で〈グラスノスチ(公開性)〉を強調して注目をひいた。…, …字義どおりには〈建て直すこと〉であるが,1985年3月のゴルバチョフ政権登場後のソ連における改革運動を指す。その中心は1980年代初頭に危機寸前の状況にまで至った経済のメカニズムの〈根本的改革〉であるが,単に経済だけでなく,グラスノスチと呼ばれる公開制や意見の多元主義,政治的民主化,スターリン批判の再開など,多様な側面に及んでいる。…. ノーベル平和賞のゴルバチョフが当… ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で [著]ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ 20世紀の歴史を俯瞰(ふかん)した時、「旧ソ連の社会主義体制の樹立と崩壊」は三本の指に入る史実である。 1990年ノーベル平和賞。 現在はゴルバチョフ財団を運営している。 →関連項目 エリツィン | シュワルナゼ | ソビエト連邦 | ソビエト連邦共産党 | 中ソ論争 | 独立国家共同体 | ヤコブレフ | ロシア 『D・ドーダー著、大蔵雄之助訳『ゴルバチョフ1931―1991』(1991・TBSブリタニカ)』, 『M.ゴルバチョフ著、読売新聞社外報部訳『ゴルバチョフ演説集』(1991・読売新聞社)』, 『M.ゴルバチョフ著、工藤精一郎・鈴木康雄訳『ゴルバチョフ回想録上・下』(1996・新潮社)』, Михаил Сергеевич Горбачёв/Mihail Sergeevich Gorbachyov. ノーベル平和賞の受賞からソ連崩壊まで; ソ連最後の最高指導者「ミハイル・ゴルバチョフ」についてあまり知れていない5つのこと! グラミー賞を受賞しちゃった! ルイ・ヴィトンの広告に出たこともある! 2008年には大統領自由勲章を送られた! ノーベル平和賞(ノーベルへいわしょう、(ノルウェー語: Nobels fredspris)は、ノーベル賞の一部門で、アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つ 。 ゴルビー! ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(ロシア語: Михаил Сергеевич Горбачёв(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ)、ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev、1931年3月2日 - )は、ソビエト連邦及びロシア連邦の政治家で、ソ連最後の最高指導者。ソ連歴代最高指導者経験者で唯一ソ連崩壊時に存命しており、かつ最長寿(2020年現在89歳)である。 90年ノーベル平和賞受賞。国際緑十字初代会長に就任。 【受賞理由となった業績や活動】 ★〔受賞理由〕 東西両陣営間の対決を緩和し、地域紛争の解決に役立ち、米ソ間の冷戦終結に貢献した功績により、1990年ノーベル平和賞受賞。 ソビエトの指導者ミハイル・ゴルバチョフは、冷戦の緊張を終わらせた功績でノーベル平和賞を受賞しました。1988年に権力を握って以来、ゴルバチョフは、非共産主義の世界との外交政策の理解に到達するために途方もない長さになることにより、国内の改革計画により多くの努力と資金を集中することを約束しました。彼の業績には、ロナルドレーガン大統領との4回の首脳会談が含まれます。これには、1987年に欧州および米国の, ソビエトの指導者ミハイル・ゴルバチョフは、冷戦の緊張を終わらせた功績でノーベル平和賞を受賞しました。1988年に権力を握って以来、ゴルバチョフは、非共産主義の世界との外交政策の理解に到達するために途方もない長さになることにより、国内の改革計画により多くの努力と資金を集中することを約束しました。, 彼の業績には、ロナルドレーガン大統領との4回の首脳会談が含まれます。これには、1987年に欧州および米国のソ連中距離ミサイルを解体する合意に達した会議が含まれます。彼はまた、1988年にソ連軍のアフガニスタンからの撤退を開始し、キューバとベトナムに外交圧力を加えて、それぞれアンゴラとカンプチア(カンボジア)から彼らの軍隊を除去しました。 1989年のジョージブッシュ大統領との会談で、ゴルバチョフは冷戦は終わったと宣言しました。, ゴルバチョフは、1980年代後半から1990年代初頭にかけて東ヨーロッパの「衛星」国家を揺るがした政治的混乱への介入を禁止する政策を通じて、西洋の多くの人々の尊敬を得ました。チェコスロバキア、東ドイツ、ポーランド、およびその他の鉄のカーテンの国がより民主的な政治システムと自由市場経済に向かって動き始めたとき、ゴルバチョフはソビエトの介入を抑制し続けました。 (この政策はソビエト共和国にまで及ばなかった。リトアニアと他の共和国による同様の努力は、ソビエト社会主義共和国を一緒に保つための厳しい警告と力で満たされた。), Passos | ar | bg | cs | da | de | el | et | fi | fr | hi | hu | id | it | iw | ko | lt | lv | ms | nl | pl | pt | ro | ru | sk | sr | sv | th | tr | uk | vi. ゴルバチョフはなぜノーベル賞をとったんですか? 受賞年:1990年受賞部門:ノーベル平和賞受賞理由:・冷戦の終結・中距離核戦力全廃条約調印・ペレストロイカによる共産圏の民主化 ノーベル平和賞だよ! ゴルバチョフ ノーベル平和賞なんてものは、ノルウエー主催のちょっとしたお祭りみたいなもので、ろくな選考基準もありませんし、立派な賞でもありません。
2020 ノーベル平和賞 ゴルバチョフ