コラムColumn
執筆者プロフィール
- CFP ファイナンシャル・プランナー
- 生活経済研究所長野 所長
- 2025.10.30
- ライフプラン
不妊治療に備える先進医療特約
かつて、顕微授精(ICSI)を含む生殖補助医療(以下、ARTという)は全額自己負担であり、1サイクルあたりが50万円以上となるケースも珍しくありませんでした。特にキャリア形成期にある20代から30代の勤労世帯にとって、この高額な初期費用は家族計画の大きな障壁となっていました。筆者の家庭でも、顕微授精と受精卵凍結保存などの不妊治療経験があり、この治療が精神的・経済的にいかに大きな負担であるかを理解しており、この分野の変遷をずっと見守っています。
●2022年保険適用拡大がもたらした費用低減と回数制限
この状況は、2022年4月の不妊治療の保険適用拡大によって劇的に改善されました(※1) 。主要なARTが公的医療保険の対象となり、体外受精の費用が保険適用前の50万円以上から、3割負担の約15万円程度で受けられるようになったなど、基本的な治療の経済的負担は大幅に軽減されています。
しかし、この制度には明確な「回数制限」が存在します。保険診療によるARTは、治療開始時点の女性の年齢に応じて、40歳未満で通算6回まで、40歳以上43歳未満で通算3回までと上限が設けられています(1子ごと) (※2)。
回数制限がもたらす新たな課題は、この限られた回数の中で妊娠の可能性を最大化することが至上命題となったことです。基本の保険診療ではカバーされない高度な「付加技術」が必要不可欠となるケースが増加し、その一部が高額な費用を要する「先進医療」として残存することで、「新たな高額な自己負担リスク」を生み出しています。先進医療特約の価値は、この成功率を追い求めるがゆえに飛躍的に高まっているといえます。
●先進医療技術料の10割負担という境界線
不妊治療のコスト構造を理解する上で重要なのが、「保険外併用療養費制度」です。この制度において、基本治療などの「保険診療部分」は3割負担ですが、厚生労働大臣が定める特定の高度な技術に係る費用(先進医療技術料)は公的医療保険の給付対象外のため、患者が全額(10割)を自己負担しなければなりません。成功率を最大化するために採用される特定の高度な検査や手技の費用は、この10割自己負担となる技術料部分に集中しています。
●成功率向上に不可欠な具体的な先進医療技術
成功率を飛躍的に高めるために導入され、先進医療特約の主な給付対象となっている付加技術はいくつも存在します。これらはまだ有効性や安全性が確立されておらず、将来の保険適用を目指して臨床研究段階にあるものです。
・子宮内膜胚受容期検査(ERPeak):遺伝子解析により、胚の着床に最も適した時期「着床の窓」を患者個別に特定する検査です。反復着床不全の患者の成功率向上に直結します。10万~13万5千円程度。
・子宮内フローラ検査:子宮内腔の細菌構成を分析し、着床を妨げる可能性のある異常な細菌叢の有無を診断し、環境整備を目指します。4万3千~4万6千円程度。
・ ZyMot(膜構造を用いた生理学的精子選択術):特殊な膜構造を用い、DNA損傷が少なく運動性の高い、良好な精子を効率的に選別する技術です。特に男性不妊の要因がある場合に用いられます。2万5千~3万3千円程度。
・タイムラプス撮像法による胚培養:受精卵を培養器から出すことなく連続撮影し、発育変化をモニタリングすることで、より質の高い胚を客観的に選別する手法です。3万~3万5千円程度。
・二段階胚移植法:初期胚と胚盤胞の二段階で移植を行い、子宮内膜への刺激を与え着床を促進する目的で、特定の難治性患者に対して採用されます。7万5千~12万円程度。
これらの技術料は複数併用されることも少なくありません。例として、1回の体外受精周期で【ERPeak検査 約11万6千円】+【子宮内フローラ検査 約4万5千円】+【タイムラプス撮像法 約3万3千円】を併用した場合、技術料の自己負担総額は約19万4千円に達します。先進医療特約が付帯されていなければ、成功率向上のための先端技術を費用面から断念せざるを得ない状況が生じ得ます。
●先進医療給付実績の劇的な変化と不妊治療の台頭
2022年4月の保険適用拡大は、民間の医療保険・共済における先進医療特約の給付実績に劇的な変化をもたらしました。従来、請求の主流は技術料が数百万円に及ぶ「がん治療」でしたが、保険適用拡大後、不妊治療の付加技術の需要が爆発的に増加したのです。
厚生労働省の実績報告(令和5年度)によれば、先進医療Aの実施件数約14万件のうち、タイムラプスを用いたものが79,700件と半数以上を占めたという具体的なデータが示されています (※3)。不妊治療が先進医療特約の請求をけん引し、がん治療との構造的な逆転現象が起こっていることを明確に示しています。
逆転の構造的背景は、「高額性」(がん治療)に対して、不妊治療は「高頻度性」を持つことです。若年夫婦による治療実施件数が圧倒的に多いため、総件数と総給付額の増加スピードが速いのです。これにより、先進医療特約は、もはや「もし将来がんになったら」という遠いリスクではなく、「今、家族計画を考え始めたら」直面する現実的なコストリスクに備えるための保障へと、その性格を大きく変えてきたといえるでしょう。
●政策動向と先進医療特約の価値
厚生労働省の先進医療技術審査部会では、不妊治療関連の技術追加・見直しが継続的に行われており、今後も新しい技術が先進医療として評価を受け、特約の給付対象となる見込みが高いです (※4)。直近の審査資料でも不妊関連の先進医療技術追加・見直しが継続しており、来期以降も件数の増勢継続が見込まれます。
先進医療特約は、低廉な保険料(通常、月額数百円)でありながら、将来の高額な自己負担(数十万円〜数百万円)に対する極めて効率的な予防費用となります。従来の保険が「治療法が確立された疾病」に対する費用をカバーするものであったのに対し、先進医療特約は「まだ評価中の最先端技術」という、未来の医療リスクをカバーする数少ない解決手段として機能します。これまではがん治療に備えるCMが多かったですが、今後は不妊治療に備える意味で活用できるものと踏まえておきたいものです。
●先進医療特約の活用提言
先進医療特約は、従来のがん治療への備えとしてだけでなく、「現代の家族計画における最重要リスクヘッジツール」として再定義されるべきという結論に至ります。
20~30代の勤労世帯が今講じるべき具体的なアクションは、次の2点です。
(1) 既存保険の見直しと特約の追加
加入している医療保険に先進医療特約が付加されているかを今すぐ確認してください。保険料が低廉であるため、未付加の場合は、できるだけ早期に特約の追加を検討することを推奨します。
(2) ライフプランニングへの組み込み
先進医療特約を、保険診療の回数制限という制約の中で“成功率を高めるオプション”を選択可能にするための「投資」と位置づけるべき段階に入りました。
医療政策と技術は常に進化しています。先進医療特約は、不確実性の高い未来の不妊治療技術に対し、経済的な安心という確実性をもたらす、20~30代の読者にお勧めしたい保障です。
(※1)厚生労働省「不妊治療に係る保険適用の概要」(令和4年3月31日)
(※2)厚生労働省「生殖補助医療(ART)の保険適用に係る留意事項について」(保医発0325第4号)
(※3)厚生労働省「令和5年度 先進医療の実績報告」(2025年3月公表)
(※4)厚生労働省「先進医療技術審査部会 議事録・資料」(令和6年~令和7年)参照
